本書における「美意識」とは、経営における「真・善・美」を判断するための認識のモード、ということになります。
『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?』より
つまりそれは、「論理」に対する「直感」であり、「理性」に対する「感性」であり、「サイエンス」に対する「アート」であります。
かつてあらゆる経営は、経験に基づく勘に基づいて行われていました。
いわば「クラフト」主体だった経営に、「サイエンス」を持ち込んだのがコンサルティングというビジネスでした。
実際、これは様々な面において一定の成果を上げました。
一方で、多くの人が分析的・論理的な情報処理スキルを身につけ、「他人と同じ正解を出す」ための方法論が一般化し、
その結果、「正解のコモディティ化」と「差別化の消失」という問題が生じているという側面もあるようです。
それと同時に、テクノロジーや経済・社会が急速に大きく変化する中で、世界は非常に不安定・不確実・複雑・曖昧な状況になっており、
これまで有効とされてきた論理的で理性的なアプローチ一辺倒では通用せず、意思決定が膠着してしまうという問題も発生しています。
さらに、「システムの変化が先、ルールの整備が後」ということも珍しくないほど変化の速い今の世界で、
明文化されたルールだけを拠り所にして判断をしていては、その急激な変化に遅れを取ることにもなりかねません。
とはいえ、「明文化されていないから何の問題も無い」という発想で行動してしまっても、大きく倫理を踏み外すことになる可能性があります。
以上のような背景で、理性・論理だけに頼らない「美意識」に基づいた意思決定スキルの重要性が高まっているというのが著者の主張です。
しかしそれは、何もかもを全て非論理的な勘によって判断を下してしまえばよいということでは決してなく、
あくまで「サイエンス」と「アート」のバランスが重要なのであり、
あるいは良心や道徳心というものにも耳を傾けながら、時には「超論理的」とも言えるような判断をしなければならないだろうということなのです。
その「美意識」を信じられないのは、自分の「美意識」に自信がないからでしょう。
自分の「美意識」の声を聴く方法を知らないからでしょう。
なぜなら、それを鍛えていないから。じゃあ、鍛えましょう。
というのが本書の趣旨であると、私は解釈しました。
本書で紹介されている、ルース・ベネディクトによる指摘は非常に面白かったですね。
世界の国は「罪の文化」と「恥の文化」に大別され、日本は「恥の文化」に類別されるというものです。
「罪」は救済されるが「恥」は救済できないというのがこの恐ろしい点で、
「恥」が行動を規定する最大の軸になる日本人にとっては、
自分の属する組織における「世間の常識」に盲目的に従うことが最も賢明だということになります。
実際、この文化は、どうやら現代社会と相性が悪いようです。
ここから脱却するための方法は2つあって、
ひとつは、異文化体験によって「狭い世間の掟」がおかしいことを見抜けるようにすること、
もうひとつが、まさに「美意識」、つまり「世間の目」ではなく「自分の内側」の方に物事の判断軸を持つということになります。
決して、「日本はダメ、欧米は素晴らしい」と嘆いているわけではなく、
それらの根底にある価値観や背景を本質的に理解したうえで、
自分の中と外にある「真・善・美」を、もっと純粋な目で見てみるべきなのではないかと、そういう気付きを与えてくれる一冊でした。
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