本とカフェ

ハゲタカ。

一連の池井戸潤さんの小説を思わせる。

昨今でも池井戸さんの小説は半沢直樹、ルーズベルトゲーム、空飛ぶタイヤなど様々なものがドラマ化、映画化されていたが、このハゲタカも作者は違えどドラマ化されている。

それだけ今の日本では逆転劇のようなものの需要があるということなのだろう。

しかし、この本の本質はそういった爽快さだけでなく、読後に思わされることは多岐に渡る。

ハゲタカとバンカー

まず日本のバブルの崩壊後の雰囲気と当時の企業や銀行の杜撰さを感じずにはいられないということである。

私はバブル崩壊後の世代で、失われたままの30年しか知らない。そのため下向きの経済が当たり前、人口減と経済縮小はもはや既定路線としか言えない状況にまで八方塞がりになっていると感じている。

しかし、この本にあるような放漫経営の企業、公私混同した企業が数多く存在するのであればそれも致し方ないことである。

もちろんそれらの企業がこの30年を生き延びれたとは思えないが、少なからず大企業は、それらの損失を下を切ることによって掻い潜り、その時代の幻想から覚めていないところもあろうかと思う。

その最たる例が日本の銀行である。

私は日本の銀行だけでなくフランスの銀行の怠慢業務にも手を焼かされたことがある。

端的に言うと、フランスの銀行では行員がろくに自社のシステムについて把握しておらず、彼らからメールで解約できると伺った。

しかし、その旨でメールすると開設した支店に来ないと解約ができないと言われた始末だった。

さすがにと思い、そこを指摘すると
「私共はそんなことを申し上げておりません。」
なんて具合に開き直る。

そんな彼らと関わるのが嫌で、口座を解約したのちに手にしたクリーンビルは、今度は日本では全く使えない。

これはつまり、海外の銀行から発行してもらった「チェック」は使えないということで、彼らは結局なんのリスクも取れないまま、世界の市場から自分たちで距離を置くことにしたということに他ならない。

そんな銀行の体質がもっとダーティーにこの本では描かれている。
焦げ付きのバルクセールの雰囲気にしても、「優秀な」バンカーの左遷や、役員クラスと政治家や経営者との癒着。それらが世間に露呈しないようにとの工作とそれらを補填せざるを得ない政府、つまり公的資金。

辟易とするほどの惨状であったと思う。

それらを通じて、かなりの数の銀行が統廃合してきたように思うが、それでも恐らく彼らは「責任」の所在を自らだと思わないという性質があるので、あまり現実は大きく変わっていないかもしれないとすら思う。

この本では、ハゲタカはこういった体質の銀行から焦げ付いた債権を安く買い叩き、企業再建を図る存在として描かれており、その理念は三方良しである。

この場合の三方は「銀行」、「ハゲタカ」、「企業」である。

銀行はそのままでは全く金にならない債権を安くでも売ることができる。

ハゲタカは債権を安く買い、それをバイアウトするまで立て直すことで大きな利益が得られる。

企業も倒産寸前から立ち直ることができる。

もちろんその際に、傾いた企業の経営陣には責任を取ってもらうことになるし、銀行自体も損失があることは否めないので、それらの責任はどこかで追及されているだろうが、全体を見れば三方良しと言っていいだろう。

そういう意味では、商売としてなに1つグレーなことはない。

ただこの本の主人公である鷲津が使う手にはグレーなものも多々あり、「情報」が如何に価値を持つのかということを嫌というほど感じさせられる。

これが2点目である。

情報の価値

情報に価値があるというのは、この時代を生きていれば感覚的に分かることだと思う。

ただその1つの情報が数千万単位のものの可能性があるなどと考えたことがあるだろうか。


週刊誌などに掲載される1つの情報や写真で大きな額を手にしている情報提供者がいるのだろうと思えば、なんら不思議なことではない。

それに政治や大企業役員などと絡んでいれば、その思惑は個人レベルのものではなくなり、金銭の授受もその分大きなものとなる。

さらにはこういった表層的な金銭のやり取りだけでなく、交渉のカードとしての「情報」も本書では印象的である。

主人公である鷲津のことを本書の中で、

「一度狙われたら逃れられない。既に水面下で勝負は決まっている。」

といった表現で説明している人物がいたように、しっかりと情報を掴んで勝てる勝負しか行わず、自分のルールの中で勝負を行っているというところがポイントだろう。

これは孫氏の兵法の中でも特に私が好きな言葉である「彼を知り己を知れば百戦殆からず 」に通ずるところである。

鷲津は常に相手と自分を徹底的に分析するところに力を入れており、その根回しや洞察力、瞬時の判断力などすべてに於いて人の上を行くような人物であったように思う。

特に自分は人の話を素直に受け取りすぎるきらいがあったり、また物事の表面だけで理解したような気になることもしばしばあったりするので、この辺りは今後に向けての課題であると言えるだろう。

文字に起こすときには、原因の根幹を考えこむことや、常識や通説に疑問を抱くこともあるので、これは主に口頭のときの課題である。結論を急いでしまうのである。

これは見習うべき点である。

それはそうと、こういった情報の価値というのは1から100まで大小あり、それも個々人によって重要性は変わってくる。

例えば、一般企業であれば、このハゲタカに出てくるような多くの金融情報や政治情報より顧客の動向や深層心理などの方が重要な情報になることが多い。

そういったウエイトも考えながら情報戦を制するものが、結局は戦を制するということだろう。

これは孫氏でも諸葛孔明でも黒田官兵衛でも変わらない事実だと認めてくれることと思う。

貫かれる正義

この本ではハゲタカが主人公になっている。

ハゲタカという名前から想起されるように決していいイメージでつけられた名前ではない。

しかし、ハゲタカには彼らの正義がある。

もちろん政府には政府の正義があり、その政府の正義を銀行が盾となって守ったり、法律が守ったりする。

それでもその実態は汚れたものが多々あることだろう。

昨今の安倍内閣でも不祥事は尽きないし、フェアが絶対であるスポーツの祭典、「東京オリンピック」なんかでも一時的に裏金問題なんていうのも取りだたされた。

一方で、その不祥事や記事も事実であるか以上に、イメージを毀損するためだけのものだったりする。

あるいはそのインパクトのある記事の裏側で、もっと大きな問題を動かし、事なきを得ようとしているのかもしれない。

要するに陰謀論のようなものだ。

これらの話も事実と思惑をしっかりとキャッチして精査しなければ実態は見えてこない。

私は政治ジャーナリストでもなければ経済アナリストでもないので、深い部分については全くもっての門外漢だが、そういうことが起こっているという可能性を考えることはできる。

そこに彼らなりの正義と大義名分があるだろうということがわかるからだ。

「勝てば官軍」とはよく言ったものである。

それは現代も変わらず、一定のゲームのルールに則りさえすれば「勝てば官軍」。あるいはルールを破っていても、ばれなければ「勝てば官軍」。

だから日本がどうだなんて私は言わない。

ただ私はルールによって損をしない人間になろうとすることはできる。

そしてそれで守るべきものを守る、守りたいものを守る。
それが私の正義になるだろう。

そのためには今この瞬間も無駄にするわけにはいかない。

今一度そう思わせてくれた本である。

ハゲタカ。

事実は小説よりも奇なり。

この本は小説ではあるが、バブルの崩壊というところに端を発し、日本の経済や政治を追いかけながら人間模様が描かれているので、部分的には事実に即したところもあっただろう。

事実は小説よりも奇なのかもしれないが、ハイブリッドはもっと奇なるものかもしれない。

池井戸潤のファンの方には是非一度読んで頂きたいものである。

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