たとえば災害の対策について
例として、首都直下型地震を考えてみましょう。
東京には、あまりにも多くのものが集中しています。
人も金も、政治も企業も情報も。
規模にもよりますが、この東京を大地震が直撃したら、多くの死傷者が出るでしょうし、政治も経済もしばらく大きな混乱が続くでしょう。
あくまで経済的なリスクということを考えると、東京だけはちょっと別物として考えておかないといけません。
自分も今まさに東京に住んでいて全く笑えない話なのですが、この日本という国においては、もういつどこで巨大地震が起きてもおかしくないわけです。
人は自然の前に無力だとはいえ、いや無力だからこそ、例えば政治機能を他地域に分散させるとか、やるべきことがあるように思うのですが、「いつ起きてもおかしくない」けど「やっぱり起きないかもしれない」ことに対して、その意思決定はこの上なく難しいものです。
なぜ意思決定が難しいのか
要するに、どんな結果になってもプラスの評価はないから難しいのです。
表にまとめてみました。
何も起きなければそれがベストなのですが、起きてしまう可能性が少しでもあるのなら、全く何もしないというわけにはいきません。
かと言って、しっかりと対策をしていたのに何も起きなかったら、「無駄な労力」「無駄な投資」だと見なされるかもしれません。
何も起きないのが一番なのに、何か起きてしまった場合にしかその対策は評価されません。
当然、対策をしていたのに被害が大きくなってしまった場合には、「対策が不十分だった」と責められます。
適切な対策を施しておいたことで被害を最小限に食い止められたのなら、これは最大限の評価をされるべきです。
しかし実際には、「それぐらいは防いで当たり前だよね、予想できてたんだから」と、さほど評価されないケースが多いはずです。
なんてこった。
じゃあどうすればいいのか
こう考えると、そういう意思決定、あるいはその対策を講じる実務の担当にはなりたくないなと心から思います。
コトが起きてから外野がとやかく言うのは簡単なんですよ。
例えば最近だと、PayPayやセブンPayが稚拙なセキュリティ対策で不正利用を許してしまった件も、確かに、明らかにひどい問題点がいくつもありましたが、じゃあ実際に自分がその立場にいた時にそれが全て防げたのかと問われたら、たぶん無理だったんだろうなと思います。
ではどうするべきなのか。
最も“賢い”のは、そもそも最初からそれに関わらないことです。
不確実性の高いリスクが傍にあるなら、たとえ多くの利益を獲得できそうだとしても、やはりそこには近付かないでおくというのが一番です。
とはいえ、残念ながらそんなことばかりも言っていられません。
リスクを覚悟の上でやらねばならないときは多々あります。
そんな場合は、何事もなく無駄な徒労に終わってもいい、誰にも評価されなくてもいいと割り切って、少し過剰に思えるくらいに対策を施しておくしかないでしょう。
それが本当に「過剰」であるかどうかは、実際にコト起こってからしか分からないのですが。
電車でずっと立っていた人よりも、座っていた席をお年寄りに譲ってあげた人の方が「良い人」認定される世の中です。
普段から食生活に気を付けて体型維持していた人よりも、過酷なダイエットによって30kgの減量に成功した人の方が「努力家」認定される世の中です。
一度も問題を起こさずに真面目に生きてきた人よりも、更生して武勇伝を語っている元ヤンキーの方が「凄い人」認定される世の中です。
たぶん、今僕らが平和な日々を過ごせている陰では、誰にも評価されないまま、この社会を未然に守っている人たちがたくさんいるはずなんです。
そういう人たちへの感謝は、忘れないようにしたいですね。
会社の中でも、そういう陰で支えている立場の人達がしっかりと報われる、しっかりと評価されるような制度や文化を作ることが大切だと思います。
コメントを残す