麦わら帽子

ルフィに見るリーダー像

あれは遠い昔、私が大学2年生だったころ。
先輩に本を借りた。

ワンピース関連書物が、手に取りやすいマネジメント本だということで紹介されたのだった。

その内容は、今ではほとんど忘れてしまったが、ルフィの生き方がマネジメントする人間として、あるいはリーダーとしての1つの良い在り方だということを記した本であったことは間違いない。

実際に今考えてもルフィから学ぶことは多い。

・船長として圧倒的な戦闘能力を持つこと。
   =周りから頼られるだけの能力がある。

・感性が時に鋭く、倒すべき相手を認識していること。
   =自分の役割を理解している。

・ビビ、モモの助などにけじめをつける場面でモノを言えること。
   =周りが見えており、時には一見厳しいことも言える。

・おれは、助けてもらわねェと生きていけねェ自信があると言ったこと。
   できないことを認め、仲間を信頼し、任せられる。

などなど。


これらのことは現実世界でやり切ろうと思ったら本当にムズかしい。

ルフィがこんなリーダー像を見せてくれていた、2010年代前半から早10年が経とうとしている。

ルフィ

その10年の中でマンガの売れ筋も大きく変わってきた。

そんな中で出てきた、今をときめくビジネス系マンガと言えば、『キングダム』で異論はないだろう。

信とリーダー像

私自身、『キングダム』はアニメを見ているだけで、マンガほど進んではいないが、既に十分にビジネス本として取り上げられるだけのものはあると感じている。

『キングダム』の方の主人公はというと、李信(信)という少年である。

彼の少年時代から、成長して青年になり将軍になるまでを追っていく。

しかし、この本で取り上げられている、少年時代の信は、ルフィと比してリーダーとしての才覚があまりないと感じる。

実際に腕は立ち、周りを巻き込み、魅了する力はあるものの、全くと言っていいほど知恵や忍耐などがない。

この点、ルフィは発刊初期の方が賢かったと言われるぐらいであり、そのあたりの能力に関しては、イーストブルー編の当初からあまり変わらないと言える。

もちろん『ワンピース』の方は、時間の経過が著しく遅いというのはあるので、一概に比較はできないが、少なくとも初期の時点のリーダーの形には大きな差を感じる。

要は信の方が、初期では未完成、ルフィは当時からリーダーとしては比較的完成していると言えるのだ。

その後、信は青年期になり、数百人、数千人を束ねる将になる。この段階で、信はさらなる腕と巻き込んでいく力を身に着け、仲間を統率するといった力や冷静さなども垣間見えてくる。

このあたりからリーダーとしての信の骨格も見えてくると言ってもいいのかもしれない。

これらのことから、ルフィも信もリーダーとしての在り方を描いたものであるといえるが、その成長過程をより濃く描いているのが『キングダム』、リーダーとしてのエッセンスを随所に組み込んでいるのが『ワンピース』といった結論になるだろう。

リーダーと現代社会

これらのリーダー像の違いに時代背景はあるのだろうか。

リーダー像

これらの本は特に、ベンチャー系の会社で働いている人に刺さるイメージがある。

リーダーという文字に若くから惹かれる人がベンチャーに多くいることも、ある種の必然だろう。

そういったスキルが早い段階で必要になるのも、システムの整備が行き届いていないベンチャーだからこそだ。

そういった環境で働く人にとっての、リーダー像が変わってきていることが、この『ワンピース』から『キングダム』への変遷に寄与しているのではなかろうか?

逆にもしここが変わっていない、あるいは『キングダム』が現在のリーダー像を反映していないのであれば、多くのマンガのようにビジネスシーンで取り上げられることのないマンガになっているはずである。

それを考えるために、ここで今一度、ルフィと信の差を整理すると、
「強烈なリーダーシップ」という点が目に付く。

「強烈なリーダーシップ」で想起されるのはどちらのリーダーだろうか。

もちろんである。

信は圧倒的に人を「引っ張って」、それがゆえにミスをすることも多いが、それをも乗り越えて成長していく。

ルフィも挫折を味わいながら成長していくのには違いないが、ルフィのリーダーシップはどちらかというと、人を「惹きつける」が「引っ張っていく」というと少し意味合いが違ってくる。

「惹きつける」と「引っ張っていく」ことの違いはなんだろうか?

仲間に見るリーダーシップ論

ここで考えるべくは仲間の存在である。

ワンピースにおける仲間は、それぞれ麦わらの一味になる理由がある。

世界一の剣豪になるため。

オールブルーを見つけるため。

万能薬になるため。

ラブーンに会う約束を守るため。

グランドラインに入る前に、樽に一味が足を置いて夢を語るシーンはいつまでも記憶に残る名シーンである。

一方で、信の仲間には各々の目標に関してはあまり触れられていない。

国を守るため、大事なものを守るための戦争ではあるだろうが、各々の目標の結果として信の元に集まったというわけではない。

それこそが、現代日本の抱える要素と繋がっていると感じるのである。

勘のいい読者は、私が何を言いたいか察しがついたかもしれない。

10年前の日本をそこまできちんと把握しているわけではないが(筆者は当時15歳)、少なからず今よりは、個々人に意思や考えというものがあったように思う。


それは昨今の政治における投票率の低さ(意見のなさ)を見てもそうかもしれないし、京大や東大の卒業生の就職先が、コンサルに偏ってきているのもそれを表しているのかもしれない(画像参照はワンキャリア)。

東大京大の学部、院卒の就職人気企業ランキング

もし個々人に目標があった時代なら、僕らは「麦わらの一味」的組織運営を目指すだろう。

各々の目標を達成する手段として、「企業」がある。

個々人がセルフモチベートされ、彼らを時に率い、彼らに時に頼り切るリーダーが必要だった。

もしリーダーが必要以上に、個々人のモチベーションややりたいことに干渉すれば、人が離れていくなんてこともあるかもしれない。

それが目標のない人が増えた(と筆者が仮定している)現在はどうだろうか。

個々人が特に大きな目標を持たない中で、仕事をする。

具体的な目標はないけど、スキルを磨かなければならないといった漠然とした思いはある。

そんな若者を率いるのには、恐らく強烈に人を引っ張っていく力が必要なはずだ。

ここでは彼らを惹きつけるだけでは足りない。

彼らをしっかりとモチベートして、かつ最前線で常に戦い続け、鼓舞できる、そんな人が必要になってきているのだろう。

それが信とルフィの違いであり、リーダー像の違いである。

このように筆者はなんとなく感じてしまうのだ。

時代が変われど、本質的なところは変わらない。

それでもリーダーの在り方や、どういう存在が世の中に必要なのかは少しずつ変わっているのかもしれない。

読者のみなさまは目指すところがあるだろうか。

信になりたいのだろうか。

ルフィになりたいのだろうか。

それとも自分自身の目標を持ちながらルフィを支える仲間になりたいのだろうか。

あるいは大きな野望を持つ信のような人の支えとして生きていきたいのだろうか。

ここには正解があるわけではない。

ただこんな記事を通してでも、そういったことを考えるきっかけになればと思うのである。

目標は変わったっていい。人生はちどりあしだ。

いつ変わるかはわからないが、私にも今現在1つ目標がある。

ワイン業界(特に生産サイド)に儲かるロールモデルを作ることである。

これができれば、日本のワイン産業は生産者にとっても、消費者にとっても、また一段と魅力的なものになるだろう。

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