(注)この記事では、「自死」(≒ 自殺)について触れます。
ですが、ネガティブなものではなく、あくまで「生き方」としての“ポジティブ”な自死です。
決して、積極的に自殺を推奨するものではありません。 

自死という生き方

覚悟して逝った哲学者

今からちょうど10年前、僕が中学2年生の時だったと思います。
当時の僕は、毎朝、朝食を食べてからその日の新聞をざっと読むという、ちょっとオッサンみたいな習慣がありました。

普段は広告などほとんど見ることはないのですが、
その日、一面の最下段にある広告欄の中の、小さく簡素な本の広告がふと目に留まりました。

必然だったとは言いません。
本との出会いは、いつも偶然なのです。

その本は、『自死という生き方』という題名でした。

十数秒くらい、その題名をじっと見つめていたと思います。
「自死」なのに「生き方」と表現しているところに、何かが引っ掛かったのかもしれません。

とにかく、それを読んでみたくなったのです。
読まなくてはいけない気がしたのです。

後日、本屋に行って探してみましたが、本棚にはありませんでした。
自殺を助長するような題名の本を陳列するのは、いくらか問題があるとの判断だったのでしょうか。

広告を出すのならちゃんと市場に流通させるべきだろう、と思ったのですが、まだネットで本を買うのがそこまで一般的ではない時代なので、そのままそのお店で取り寄せをお願いしました。

僕はこれまでに何十冊も本を購入してきましたが、わざわざ取り寄せてもらってまで買ったのはこのときだけだと思います。

新葉隠

『自死という生き方』の著者、須原一秀は、
65歳の春、健全な肉体と平常心を保ったまま自死しました。

自らの人生にこの上なく満足を感じると同時に、以後の人生は少なくともこれまでの人生のどの瞬間よりも幸福ではないだろう、と悟った者によるこの“健康的な自殺” は、いわば「満足死」と呼べるものであります。

彼がその遺稿として記した「新葉隠」に、浅羽通明による解説を加えて書籍化したものが、『自死という生き方』になります。

ちなみに、葉隠はがくれというのは、武士道について書かれた江戸時代中期の書物です。

須原氏は、そういった武士道や、あるいは仏教やその他の宗教を取り上げることで、「死」と向き合います。
さらに、三島由紀夫、伊丹十三、ソクラテスといった、積極的に死を受容した人物の「死」についても、細かに考察をしています。

そんな著者の主張は、この一節に表れています。

主体的判断領域に属することに関して、声高に否定することも肯定することも慎まなければならない。したがって、自殺であれ、自決であれ、自然死ではないという理由だけで否定するのは、それはお行儀の悪いことだと言いたいのである。

つまり、幸福ゆえに自ら積極的に死を受容するという行為は、それが正しいか間違っているかという議論の対象ではなく、誰であろうと、それを肯定も否定もできないし、するべきではない。
ただそれを推奨する必要も無いが、ひとつの選択肢として、それは受け入れられるべきものなのだ、ということです。

彼の自死は、この主張のための哲学的プロジェクトであったわけです。

本書における宗教哲学に関する考察の部分は、おそらくより詳しい専門家の方が読めば、解釈に誤りがあるとの指摘を受けかねない部分もいくらかあるように思います。

しかし、この本は彼が自死を決意してから短期間で書き上げたものであります。
決行までの間にも、おそらくいくらかの懸念や葛藤があって、それでもなんとか周りの人を、少なくとも自分を納得させなければならない。

そういう思いの中で書かれたものなのです。

それを踏まえると、これらの宗教や哲学との対峙からは、
自らの人生に何の悔いも未練もない男というよりも、むしろ自分の人生に満足を感じているからこその、強い「生への執着」が見て取れるのです。

僕は、須原氏の最期を、決して「正しい」とは思いませんが、否定することはできません。
それを否定することは、彼の人生そのものを否定することになるからです。

推奨するつもりも、賞賛するつもりもありませんが、
ただその死は、一人の男の「生き様」であって、当時の僕は、少しだけ「格好良い」と思ってしまったのです。

鉄柱

ひとつ、紹介しておきたい小説があります。
朱川湊人さんの鉄柱クロガネノミハシラという題名の短編小説で、『白い部屋で月の歌を』という小説とともに、文庫本に収録されています。

「鉄柱」は、左遷が原因で、とある田舎町に引っ越して来た夫婦の話です。
そこは、誰もが親切で優しく、生き生きと暮らしている町です。

その町の小高い広場に、一本の鉄柱が、ぽつんと立っています。
「ミハシラ」と呼ばれるそれは、人が首を吊って自殺するために存在しているのです。

ミハシラを使うのは、幸福で、心身ともに健康な人間です。

もし今日が、人生で最高に幸福な日だったとしましょう。
今日が最も幸福であるならば、明日は今日よりも不幸だということになります。

明日が今日よりも確実に不幸になると分かっているのなら、人生で最も幸福なままに死を迎えたい。
そういう人にのみ、ミハシラを使うことが認められています。

この町では、それが伝統的な風習として、一つの儀式として受け入れられています。
自分の人生に満足を感じ、幸せの中で幕を引くことを選ぶということは、むしろ「おめでたい」ことですらあるといいます。

何かがおかしい。 正しいはずがない。
主人公はそう思いながらも、ミハシラを使った彼らを、正面から否定することができません
いつしか、そういう考え方もあるのかもしれない、と思うようになります。

しかしその一方で、この町の人達は、ミハシラという存在を受け入れているからこそ、むしろ「死」よりも「生」に怯えているようにも感じられるのです。

『この町に住んでいる人間が善良に見えるのは、ミハシラを恐れているからですよ。いや、ミハシラそのものではなくて、ミハシラを使う人間を恐れているんです。ミハシラで人生を終える人間に比べれば、自分たちの人生はくだらなくて空虚なものだと、連中は知っているんですよ。』

人生は大いなる「空」である

「死に方」というのは、これは即ち「生き方」でもあると思います。

「死」を考えるということは、「生」を考えるということに他ならないのです。
むしろ、それなくして「生」を考えることなどできないでしょう。

10年前に一冊の本を手に取ってしまったがために、ずっとこういうことを頭の隅で考えながら生きてきました。
冷静に考えると、変な中学生ですね。

きっとほとんどの人は、「満足死」という概念を考えたことすらなかったのではないでしょうか。

人間は皆、誰もが生まれた瞬間から「死」へと向かっています。

それは、いかなる手段を以ってしても、決して逃れることはできないのです。
ただこのことを事実として認めることさえできるのならば、積極的に死を受容するという選択は否定するに及ばないのです。

少なくとも、それを選択肢のひとつとして存在を許すことで、はじめて人は生と向き合い、生を実感できるのだと、僕は思います。

結果として、あらゆる事象のありのままを受け入れることができ、そうすることで、釈迦が説いたように、自分と自分を取り巻く存在は全てくうであって、しかし、それは決して「無」や「虚」などではなく、挑戦すべき価値のある大いなる「空」であるということを知るのです。

ここまで、長々と書いてきましたが、僕自身は自殺しようなどとは、これっぽっちも思っていないので安心してください。

まだまだやってみたいことはたくさんありますからね。
「満足死」など、まだ到底選ぶ権利は無いですよ。
もちろん、推奨するつもりも一切ありません。

ただ、あと4, 50年もした頃に、「もういいかもな」と思えるような人生を送れたのなら、それは、ひとつの「良い人生」なのかもしれません。
そういう「生き方」でありたいなあ、と僕は思います。

まあ、死ぬまでは生きるのです。 それだけです。

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