社会の「しくみ」とは何か
この本は、「日本社会のしくみ」について、その特徴や歴史を多面的かつ客観的に解説した大衆向けの学術書である。
ここでいう「しくみ」とは何か。
それは、単に法律や制度を指すだけでなく、もっと広い意味で、
“雇用や教育や福祉、政党や地域社会、さらには「生き方」までを規定している「慣習の束」”であると著者は定義している。
この本は、「日本社会のしくみ」について、その特徴や歴史を多面的かつ客観的に解説した大衆向けの学術書である。
ここでいう「しくみ」とは何か。
それは、単に法律や制度を指すだけでなく、もっと広い意味で、
“雇用や教育や福祉、政党や地域社会、さらには「生き方」までを規定している「慣習の束」”であると著者は定義している。
みなさんはGrammarlyというアプリケーションを知っているでしょうか。
私がこのアプリケーションを知ったのは二年前。
海外の大学院の授業用レポート(英語)をグループワークで作成していたときに友人に勧められました。
それ以来、全レポートを作成するときにお世話になり、今でも修士論文を書くのに利用しています(修士論文用で私は課金しました)。
それでも無料で使える範囲で十二分に活躍してくれるGrammarly。
その使い勝手を今回はお伝えします。
無料版のGrammarlyでは誤スペルの訂正、aやtheの抜け落ちや使い分けのチェック、名詞や動詞の単複のチェックができます。
そのほかにも、過剰なスペースの削除やコンマの挿入、コンマやセミコロンの使い分けなどの自分でチェックするのが難しい細々としたところも見てくれます。
こういった小さなスペルミスなどは先生方に読んで頂いても見つけることができないことがあるため、システマティックに行ってくれる機械が重宝する場面です。
またこのアプリケーションはネット上でFirefoxやGoogleChromeのアドインとして使えるだけでなく、ダウンロードしてアプリケーションとして、あるいはOfficeのワードやOutlookなどと連携させて使うことができるのも魅力です。
自分はもっぱらワードでの利用が多いので、ワード利用の際の雰囲気を見て頂ければと思います。
SEO対策っていうと難しそうというイメージがついてまわります。
少し調べてみると様々なサイトが様々な方法を紹介していて
これらすべて理解してないとSEO対策できないのかと
始める前から尻込みしてしまう人も多いでしょう。
でもSEO対策はたった一つのことさえできれば
誰にでもできるのです。
あなたもこれを機にSEO対策をしてみませんか?
0から立ち上げたサイトを1年で月間20万ユーザーのサイトにまで成長させ、
SEO対策ができるようになったのですが、
サイトを立ち上げると決めたとき、もしかするとあなたよりSEO対策について知らなかったかもしれません。
当時どれくらいSEO対策について知らなかったかというと、
「SEO対策」という言葉を知らなかったレベルです。
もちろんgoogleで検索順位を上げる方法も知りませんでしたし、
検索順位がどうやって決まっているかも知りませんでした。
サイトを作ったことはもちろんなかったですし、
身近にSEO対策について気軽に聞ける知り合いもいませんでした。
そんな中、0からサイトを立ち上げてみたのです。
そんななかSEO対策というものを独学で学び、
自分なりに対策してみて記事を投稿して、サイト作りをしていました。
はじめたてだから検索順位が上がらなくてもしかたないと思いつつ
コツコツ続けるのが大事と言い聞かせて
記事をひたすら投稿していました。
サイトを作り始めて6ヵ月以上たった時、
ユーザー数は月2000人もいかない弱小サイトのままでした。。。
じわじわとユーザー数は伸びているものの目標としていた数字に比べはるかに低く、
このまま記事を投稿していて意味があるのかな…と悩む日々でした。
時間が無駄に過ぎていってしまっているという焦りもあり、精神的にもきつく、もうやめようかなと何度も思っていました。
サイトを作り始めて半年の頃、
サイト作りのプロの方から自分の作っているサイトのアドバイスをもらいました。
そしてその際、サイト作りの極意ともいえる「SEO対策の本質」を教えていただきました。
自分自身そんな方法があったのかと衝撃を受けたのを今でも覚えています。
そこからSEO対策の本質を元に、様々な施策をしていきました。
今まで自分がしていたのはSEO対策と呼べるようなものでは無かったんだという事に真の意味でSEO対策を出来るように気が付きました。
そして、一気に自分のサイトは月1万ユーザーをあっという間に越しました。
そのころにはSEO対策が自分の中で完全にできるようになってきていたので、
やった施策は次々に成果に結びついていき、
SEO対策って本当に楽しいものなんだなと思えるようになっていきました。
そんなわけないと思ったかもしれませんけど、
だって、一週間前に比べてPV数が倍になっていく日々ですよ?
そんなの楽しいに決まってませんか?
当然書いた記事は上位に表示されるのが当たり前です。
狙ったキーワードで初めから1ページ目2ページ目に表示されるのです。
書けば書くだけPV数ユーザー数は上がり続けるような状態になるのです。
このことをサイトを作っている別の友人にも伝えると、
その人が書いた記事も1ページ目の常連に。
過去に書いた記事を手直ししてみたら圏外からあっという間に1ページ目に。
そんなことが出来てしまうのです。
SEO対策の本質がわかっていたらそれくらいできてしまうのです。
面白いし、書いたものがすぐ成果になるから無駄もなくなり、
やる気にもつながります。
ノウハウ化したSEO対策を知ってみたいですか?
かなり長くなるし、文章にしても伝わらないので
気になる方には直接お話させてもらおうと思います。
もちろん条件はありますけどね。
教えるだけとか僕にとって時間の無駄なんで。
どんなサイトを作ってる(or 作ろうとしている)。
何をしていて何に興味もっていて、、、みたいな話をして
面白いなと思った人には教えようと思います。
なんたってアッサンブラージュはそういうサイトですので。
サイト作り挑戦してみたい、やってみたい、なにか発信したい
そんなあなたは
価値あるサイト、面白いサイト一緒に作りましょ!
SEO対策知りたいなと思って、
何をしようとしてるか話してくれる方は下の連絡先まで連絡お願いします。
連絡先→rulysapphire@gmail.com
どんな仕事も、基本的には絶対的な「正解」なんてものはないわけです。
先のことなんて分からないし、不確定要素だらけだし、
それでもその中で、可能な限り最適な意思決定を繰り返していかなきゃいけないのです。
こういう世界で、僕から見て「仕事ができる」人とそうではない人との違いは、ひとえに「想像力」にあるのではないかと思います。
こちらのブログでは初のエントリになります。吟遊酒人こと「おくむら」です。
今回は齋藤嘉則さんのビジネスにおける必携本である『問題解決プロフェッショナル』について書かせていただきます。
「ゼロベース思考」とこの本では言われていたので、目次の段階では話の内容があまり推察できなかったが、端的に言うと「既成」や「成功体験」からの脱却である。
一方で、「仮説思考」はその単語からも推察されるように常にその時点での結論を持ち、ベターな選択を行動に移せというものである。
この両者は今でこそ日常的に言われている考え方であろうと思うが、これを90年代から一貫して述べておられることから、筆者の本質に対する意識を感じ取ることができる。
この2つが冒頭で述べられており、私はどちらかというと後者の方が得意である。
仮説検証のサイクルを実験と称して回すことができる環境は最高に楽しい。
余談になるが、ブドウ栽培からのワイン醸造は人生を賭けても単純化すれば40年、つまり40回しか仮説検証できないことになる。
実際には色々な角度でそういうサイクルを回すことになるので、40回なんてものではないが、こと「栽培」に関してはこれは事実だと思っている。
農業の難しさはそんなところにも潜んでいる。
いずれにせよ、そういったサイクルを行動と共に動かしていくのは性にも合っているし、普段から気をつけている部分である。
一方で、ゼロベース思考というのは、私の辞書には載っていなかった単語だったのもあり、今一度習慣化する必要がある。
既成からの脱却は突き詰めると、価値の根源と変遷を察知すること、そしてその変遷からダイレクトにマーケティングに反映することだと考えられる。
このこと自体に目新しさはないので、重要なことは「ゼロベース思考」という単語と共に価値の客観視のサイクルを回すことにあると思う。
これらの2つの思考法は、今後も都度実践していく必要のあるものだろう。
これまた初見なのが“MECE”というワードである。
これは如何なるフレームワークを使うときにも必要になる考え方で、 日本語でいうところの「漏れなくダブりなく」である。
本書における「美意識」とは、経営における「真・善・美」を判断するための認識のモード、ということになります。
『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?』より
つまりそれは、「論理」に対する「直感」であり、「理性」に対する「感性」であり、「サイエンス」に対する「アート」であります。
「人は見た目じゃない」なんてよく言いますけど、
人にしても何かの製品にしても、見栄えって本質じゃないと思うんです。
服装とか、デザインとか、パッケージとかそういうのよりも、結局は中身じゃないですか?
だからこそ、僕は思うんです。
そんなくだらないところで損するのもったいなくない?
今回は最近SNSやネットのページを見ていて感じることを書いていこうと思います。
何を感じてるかというと、それは多くの人が国語力不足なのではないかということです。
まず国語力不足をどんな時に感じるかですが、結構いろいろな所で感じます。
特に感じるのは次のようなときです。
どんな時に国語力が不足してるんじゃないかと感じるかというと、
Twitterやnoteなどのコメント欄を見たときです。
ちゃんと発信している人の意図をくんで、そのうえで話できてるような人は
ほとんどいないんじゃないかというくらい的外れな意見をコメントしてる人ばかりです。
「そういう事言いたいんじゃないのに…」というような悲しそうなツイートは
もはや日常茶飯事です。
議論と呼べるようなものではないですし、
会話はキャッチボールではなくドッジボール。
今までも実態は似たようなもので、
ネットの普及によって顕在化しただけならいいんですけど、
低下していってるような気がしてならないんですよね。
国語力不足は勉強を教えているときにも感じます。
でもそれは国語を教えているときじゃないんですよ。
国語の文章が出来ないのは全然理解できます。
なんせ評論文の難しい文章を読み取ったり、難しい言葉を知らないとわからなかったり。
小説の登場人物の心情把握なんかの文学的表現なんかもやっぱり難しいです。
でも今回言いたいのはそういう科目として「国語」ができないという話ではないんです。
国語力不足を感じるのは数学や理科といった国語以外のことを教えているときです。
なんと数学ができないとか物理が出来ないという人の中で
「問題文や解説の日本語が理解できない」という人が意外と多いのです。
そもそも問題文が理解できないというのは数学ができないとか以前の問題です。
そりゃ授業についていけないわけですよ。
SEO対策の指導の一環でネットの記事の添削をしていることがあるのですが、記事の添削で出してくる文章がまぁひどい。
言葉遣いとかは自分もこのサイトだとぐちゃぐちゃだし、それも個性だと思ってるのでいいんですけど、文法的に気持ち悪い文章がとても多かったです。
しかもそれを書いていてなんの違和感も持たない人が意外と多くいて、「この文章おかしいよね」と言っても「えっ、おかしいですか?」と返してくる人ばかり。
主語の後の「が」が2回続けて出てくる文章を平気で出してきます。
後から読んでみて違和感がないらしいので本当に不思議です。
セミナーによく足を運んでいた時期があったのですが、
セミナー後に一緒に聴いていた人と話をしていたら
相手が全然内容を理解できていなかったという事が多々ありました。
ここまで内容が伝わっていなかったらセミナーの講師もかわいそうだなと思うくらい
全然伝わっていませんでした。
でもなぜかみんな「今回のセミナーはすごかった」だの
「ためになった」だの話しているのです。
満足してるからいいんでしょうか…。
それでいいのか…。うーーん。
それでいいなら俺もセミナーしようかな…。
それっぽく話すよ?笑
もし国語力が不足してるとしたら何が原因なんでしょうか。
やっぱり本とか活字を目にする機会が減ってるせいでしょうか。
考える機会が減ってるからというのもあり得ますよね。
もちろん個人差あるけど、
昔の人に比べてSNSやらテレビのような映像で過ごすことが多くなったわけですし
考える機会や活字に触れる機会は確実に減ってそうです。
あと教育プログラムにも問題あると思うんですよ。
国語力もっと学校で教えたほうがいいと思うんですよね。
国語力ないと自学自習もできないわけだし、最優先事項でしょう。
国語力を上げるなら何をしたらいいのでしょうか。
僕は文章を要約するのと、日本語の聞き取りをしたらいいと思います。
要約は筆者の主張、本当に言いたいことを掴まないとできません。
今ここで話している国語力は相手の伝えたいことが読み取れないという事なので
要約がいい訓練になるというわけです。
日本語の聞き取りは聞き取った内容を理解していないと
書き取りするには時間が足りません。
短時間で内容を把握するという訓練になるのです。
学校でこのような要約、聞き取りを導入するだけで国語力不足も改善するし、
もちろん「現代文」の成績も上がるのになと思っています。
最低限の国語力は人間関係を円滑にするためにも必要になるものです。
話の通じない人には話す気がなくなりますし、それだけで機会損失は計り知れないものになるでしょう。
子ども向けとしては国語力を養う事は最優先課題の一つとして
もう少し真剣に考えられるべき問題なのではないかと思います。
(注)この記事では、「自死」(≒ 自殺)について触れます。 ですが、ネガティブなものではなく、あくまで「生き方」としての“ポジティブ”な自死です。 決して、積極的に自殺を推奨するものではありません。
今からちょうど10年前、僕が中学2年生の時だったと思います。
当時の僕は、毎朝、朝食を食べてからその日の新聞をざっと読むという、ちょっとオッサンみたいな習慣がありました。
普段は広告などほとんど見ることはないのですが、
その日、一面の最下段にある広告欄の中の、小さく簡素な本の広告がふと目に留まりました。
必然だったとは言いません。
本との出会いは、いつも偶然なのです。
その本は、『自死という生き方』という題名でした。
今、何か悩んでいること、迷っていることがある方。
いろいろ考えすぎて、どこからどう片付けていけばいいか分からなくなっていませんか?
進路で悩んでいる人。就職先、転職先で悩んでいる人。
営業の提案資料作りに悩んでいる人。
事業の方向性に悩んでいる人。お金に悩んでいる人。
人間関係に、恋愛に悩んでいる人。
どんな場合でも同じです。
複雑な問題を、複雑なまま考えているから分からないのです。
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